9月の秋晴れの昼下がり、山口県小野田のあたりを車で走っていた。ふと道路脇に目をやると、単線レールの終着点と小さなホームが目に飛び込んできた。まだ運行しているのかな?と思いつつ、気にはなったがひき返すことなく先を急いだ。その日夕刻 帰社してPCを開いたら、本誌お気に入り執筆依頼メールが入っていた。バックナンバーを見ながら、寄稿者皆様の多趣多芸に感心し、御多分にもれず、はてさて何を書こうかと思案に暮れたあげく、当日の昼の出来事を思い出した。私は決して鉄道マニアではないが、原っぱのなかに消え入りそうな線路や小屋のような駅舎に、使われていない廃線の風情を見てとった。パソコンで調べたら駅名は小野田線長門本山駅(廃線ではない)だった。朝夕1日3本のダイヤだ。廃線の旅、廃線ウォーキングなど、廃線の風景にロマンを感じる人は少なくない。ひょっとしたらどうやらその辺に私のお気に入りが有りそうだ。そんな自己分析を試みて、ある仮説をたててみた。私は廃〇の物事との関わりがお気に入りかもしれない。廃墟、廃線、廃品などなど・・。

 

        長門本山駅                  二階堂CM

・風景・シーンとしての廃○のこと

映画の中での廃墟のシーン。アクションでもホラーでもSFでも廃墟が舞台になるとわくわくしてしまう。ミステリー、謎解き、お化け屋敷、かくれんぼ感覚などいろんな要素が絡み合って面白い。映画作りの人たちもきっと絵になると思っているに違いない。それにもまして、かつてそこに繰り広げられた人々の営みの、色褪せた記憶が、訪れる人のそれぞれの想像力の中で甦ってきて、廃墟は興味深いものになっている。

詩歌、音楽の世界。土井晩翠の「荒城の月」、三橋美智也の「古城」、芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」-歌、俳句でもそんな廃墟への詩情を歌うものも多い。

30年以上も前のこと。知人の所有する紀州の漁村の廃屋に招かれた。水も電気もない、手つかずのあばら家だった。田の字平面に厨のある通り土間が、涸れ井戸のある前庭につながり、別棟で納屋と風呂があったように記憶する。鮮明に覚えているのは、押し入れに捨て置かれた古新聞の紙面であった。そこにはビートルズ日本公演の報道が記されていた。当時から遡って10数年前の1966年の出来事である。住み手がいなくなって、この家の時間はその当時で止まっていたのかもしれない。過疎の鄙びた漁村の廃屋とビートルズの奇異な取り合わせは、今も不思議さと懐かしさが混ざり合った廃○体験であった。

そういえば、大分むぎ焼酎二階堂CM の魅力-別に焼酎ファンではないけれど、この懐かしさテンコ盛りのCMのファンは多いらしい。ノスタルジーを感じる情景の珠玉の断片が30秒のなかに凝縮している。そこに繰り広げられる風化した風景、映像に見いってしまう心情は万人に通じるものなのだろう。果たしてこれからの子供たちの世代に共感を与えていくものだろうか?とふと不安がよぎったりする。

・モノとしての廃○のこと

廃品―街角の粗大ごみ置き場に捨て去られたガラクタ、波打ち際に寄せられた漂流物などに思わず見いってしまうことがある。どんな経緯でここにあるのかな?と変にものに感情移入してしまう。決してケチでとか、物を大事にしたいという物質的なもったいなさではなく、むしろその物にまとわりついている、塗り込められた思い出が捨てられないのだと思う。物と同時に思い出も捨てて行くことで自分の存在証明を消して行くような気がする。断捨離ブームには私はちょっとついていけない。

自宅に一台の真空管アンプがある。かれこれ40年近くになる。最近は火を入れることなくただただ棚の上にずっしりと鎮座している。当時集めたレコードとともに棚の一角を占領している。当時すでにトランジスター時代に敢えて買い求めたアンプで、球が温まって来ると、音がどんどん芳醇でとろけてきて、女性ボーカル、ストリングス等は最高だった。発熱も半端でなく、冬はともかく夏は暑くてたまらなかった。当時の他のオーディオ機器は捨て去ったが、このアンプはデジタルAVに埋もれながら、当時のアナログ時代の思い出の代表としてレコードたちと隠居生活をしている。捨てられるものなら捨ててみろと言っているような気がする。もはやこのアンプの機能は音楽信号でなく思い出の増幅器である。

 

        真空管アンプ                  軍艦島

一人ひとりの記憶の原風景は、背景となった場所の映像、音、風、匂いであったり、そこにあったモノの印象であったり、それらが複合的に絡み合って、出来上がっていくのだと思う。そういう意味で廃〇にまつわる様々な事柄が私の想像力を掻き立ててやむことがない。いまの子供たちは、デジタル化の中でバーチュアル体験の可能性が広がったけど、実体験でない虚ろな体験が原風景になっていくのかもしれないと思うと、一抹の寂しさを感じる。生きている間はせいぜい等身大で実感できる廃〇体験を積み重ねてゆきたいものだ。

最近長崎の軍艦島上陸ツアーができたことを遅まきながら知った。ある種観光化してしまって、レア感は薄れてしまったのだろうけど、私にとって現在最も訪れたい廃〇である。